情動研究概要
人類学的フィールドワークを通じた情動研究の新展開:危機を中心に
研究目的(概要)
本研究の目的は、理性に対置されてきた「情動」こそが人と人を結びつける社会性の根幹にあるという理論的な展望と、身体と感性を基盤として現場から問題をたちあげてきた人類学的な臨地調査の方法論とを接続することにより、情動生成のプロセスを実証的に解明することである。近年多発する災害・紛争・テロリズムといった危機的状況の只中でも人々は日常性を維持すべく共同的な生を営んでいる。本研究では、アジア・アフリカにおける多様な現場から、日常的な生活の局面を基盤とし、偶発的・受動的に巻き込まれる危機の局面、逆に能動的に統制された祝祭の局面の3つを多角的に考察することで、情動研究に新たな展開をもたらすことを目指す。
① 【研究の社会的・学術的背景】
冷戦終結後のアジア・アフリカ諸国では、未曾有の経済発展を遂げる地域が出現する一方、地震や津波といった自然災害、内戦や暴動といった事件が各地で頻発した。また、近年の欧米諸国における、いわゆるテロリズムの激化や排外主義の高まりは、生命や財産あるいは予測された日常が不合理に奪われることへの不安や恐れを世界規模で増大させている。理性によって制御されてしかるべきはずのこうした危機の蔓延は、合理的理性を前提に構築されてきた人文社会諸科学に、抜本的な視座の転換を要請しはじめている。かかる情況において注目されるのが「情動」にほかならない。
情動は、これまで感情や情緒といった人間の主観的な現象として議論されており、英語ではpassion、emotion、feeling、affect、sense などの用語で表される。近代西欧思想においては、理性と対立するもの、統御されるべきpassion 等として考察され、「受動性passio」に本質があると捉えられてきた。このため、近代以降学問全体が自由意思や能動性を特徴とする主体的な人間のあり方を追求するなかで、情動は問題解決をもたらすべき研究対象から外される傾向にあった。
しかしながら、国際的に見た場合、とりわけ1990 年代から、affect という用語により、情動から人間を捉え返すことで新たな視野を拓こうとする動向がさまざまな学問分野において胚胎するようになった。いわゆる「情動論的転回」である(Clough, T. & J. Halley eds., The Affective Turn: Theorizing the Social , Duke University Press, 2007)。とりわけ顕著な成果が示されたのは、神経科学や認知心理学といった自然科学系の研究であり、たとえばA.R.ダマシオ(『デカルトの誤り:情動、理性、人間の脳』筑摩書房、2010 年)は、脳科学に「身体」の視点を導入することで、情動が脳内の生理・心理現象ではなく、身体と脳との相互作用から生じる動態的現象であることを明らかにした。またミラーニューロンの発見により、霊長類がもつ他者への共感能力の基底性が神経細胞レベルにおいても解明されたことで、人類が理性に基づく社会契約に先立ち、情動に基づく共感作用を通じて社会性を獲得してきた可能性が実証されつつある。
これに対し人文社会科学の分野では、情動が人間の生理反応や心理には還元できない社会的な現象であることに着目した研究が登場している。すなわち個体内部で完結することなく、他なる者に影響を与え/与えられる<もの>としての情動、スピノザのいう「動揺させるものaffectus」としての情動を捉える試みである。そこでは、個人の感じる喜怒哀楽や快・不快といった感情や感覚も、主観的ではなく、間主観的出来事として捉えられ、個の身体を越えて拡張していく情動の共同性が焦点化されてきた。政治学や社会学では、こうした視角が排外主義・ナショナリズムの研究やマスメディア・ソーシャルメディア研究に応用され、優れた成果が生み出されている。
とはいえ、これらの人文社会学的研究が論じる間主観性とは、そのほとんどが研究対象相互の主観性を問題化しており、「研究対象の情動を理性的に分析する研究主体」は間主観性の圏外におかれがちであった。この点に人類学が情動研究において独自の貢献をなしうるポイントがある。人類学は、実験や文献ではなくフィールドワークを方法論の柱とする。それは「今・ここ」における研究者の身体・感性の総体からフィールドの実態を解明する技法である。なぜ、身体として共在することが重要なのか。自然科学が明らかにしたように、情動は身体を介した共感能力に基礎をおく。だが情動は、自然科学が志向する客観的性質ばかりでなく、視点に応じて異なった様相を示すような、いわば内部観測的視点をとることで生成される性質をもつ。ゆえに出来事を外部から観測するだけでなく、観察者自身が出来事へ参与することにより内部から「共感」的に観測することが重要となる。ただし身体が異なれば視点も異なり、出来事が視点ごとに無数に存在すると主張するわけではない。ある場において共に関与する出来事に焦点化すれば、そこに研究者が身体として存在することによって経験にはなんらかの共通する情動生成のプロセスが見いだせると考える。本研究の目的は、そのプロセスを具体の場から実証的に解明することである。
研究代表者の西井は、こうした展望の下、内在的視点から情動生成の民族誌を記述する方法を独自に追及し、その成果を、2011 年には論集『時間の人類学:情動・自然・社会空間』として、2013 年には単著『情動のエスノグラフィ』として公刊した。本研究では、これらの成果をより理論的に展開し、情動研究を学際的かつ国際的に牽引することを試みる。
② 【研究期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか】
本研究では第1 に、それぞれの調査地において長期のフィールドワークを実施してきた研究者を結集することで、情動が個を越えたレベルで発現するプロセスを以下3 つの局面から解明する。
(1)生活における情動:生業活動や日々の人間関係をはじめとした、社会的な相互行為に生成する情動の流れや働きに着目し、一見理性的な判断や行為も情動を媒介することではじめて現実化していることを明らかにする。
(2)危機における情動:(1)とは対称的に、自然災害や紛争といった予期せぬ出来事をめぐって現われる情動の様態を明らかにする。現実の危機に際して経験する情動ばかりでなく、危機を生み出す情動や、危機を乗り越える情動といった多様な局面に着目する。
(3)祝祭における情動:儀礼や芸術、スポーツやゲームといった祝祭的な場を構成する情動は、日常的ではない点では(2)と同様である一方、あらかじめ定められた条件や規則の下で情動が表現/表出されるという点においては(2)と異なった位相で理解される必要がある。
本研究では、日常生活における情動の働きが災害や紛争といった危機において一層の深度をもって立ち現れる点と、祝祭という非日常の場では情動を介して共同性が構築される点に着目し、偶発的に情動が喚起される危機の局面(2)と逆に能動的に情動を作り出す局面(3)の双方から日常的な情動(1)を照射する。この多角的な考察により、危機から生まれた情動が、さらなる危機を生み出すメカニズムや、逆に危機の乗り越えと日常性の回復に寄与するプロセスの解明をめざす。
第 2 に、これらの事例研究の成果を統一的に捉えることを可能とする、情動をめぐる社会理論の構築を試みる。とりわけ個の内に発しながら個を越えて拡張する情動の特質に注目することで、共同性や集団形成をめぐる理論に新たな視点を拓く。また、ナショナリズムの例を想起すればわかるように、個を越えて共同性を生み出す情動のプロセスは、他者を「感情的」に排除するプロセスへと反転しうる。こうした情動の両義性もまた解明されるべき課題となる。
③【本研究の特色および予想される結果と意義】
本研究の特色は、情動の社会性に着目する人文社会系の知見と、その社会性が人間の生物学的身体と共感能力に発するという自然科学系の知見をふまえ、研究者自身の身体と感性を基盤とした人類学的な臨地的方法論を柱とする新たな情動研究の可能性を切り拓こうとする点にある。本研究は、理性によって統御された実験室ではなく、人々が生きる具体の場から情動にアプローチする人類学的手法をとるがゆえに、情動研究に独自の貢献をなしうると期待される。こうした研究には、自然災害や暴力的事件が多発する近年の世界情勢にてらして少なからぬ意義がある。発展を夢見る人々の期待や喜びであれ、危機を生きる人々の不安や恐怖であれ、当事者ならぬ研究者はその場において身体を拓いて情動を感受し、かつ、それと同時に情動に包含されることなく理論や民族誌などのテキストを生成させる。それらは当事者の情動を他者へと媒介する回路となるだろう。他者との相互理解には「対話」が必要だと言われる。紛争、テロリズム、排外主義といった「対話」なき暴力の世界的な蔓延は、理性に基づく「対話」型の他者理解のモデルに根本的な疑問を投げかけている。情動の「共感」を介した他者理解の可能性を追求する本研究は、言語的理性を素朴に信頼する近代的思考様式の乗り越えの可能性を切り拓くものである。
研究計画・方法(概要)
本研究は、生活・危機・祝祭という主題をめぐって事例研究に従事する調査班と、情動理論の基盤研究に従事する総括班という2 部門体制をとる。調査班の活動には、参与観察を柱とする一般的な人類学の手法に加え、動物行動学や供述心理学の技法を組みこむ。これによりノイズとして切り捨てられがちだった情動を積極的に掬いあげ、資料化することを目指す。総括班には、人類学ばかりでなく、認知心理学、霊長類学、理論生命科学などの専門家が加わる。これにより、生活・危機・祝祭という事例研究の理論的綜合と、各分野の文献資料の集成(「情動文庫」の創設)を目指す。調査班と総括班の知見は全体会合を通じて相互にフィードバックし、国際シンポジウムやワークショップ、論集の出版などを通じて研究成果を国内外に発信する。
1研究体制
研究体制の中心は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(以下、AA 研)におく。AA 研は、研究代表者である西井の所属機関であるだけでなく、所内組織である基幹研究人類学班の活動を通じて、2013 年度以来、情動という視座から現実世界の動態的理解を目指す共同研究体制を整備してきた。また、本研究の方法論的柱であるフィールドワークをめぐっては、2006 年に創設された所内部局「フィールド・サイエンス研究企画センター」の活動を通じて、臨地調査法の開発、調査関連データの蓄積、研究者を連携するハブ機能を担ってきた。本研究では、こうしたAA 研の活動のなかで培われてきた、人材、ネットワーク、設備、情報資源をフルに活用する。とりわけ人材面に関しては全体をアジア・アフリカ諸地域の事例研究に従事する調査班と、おもに情動理論の基盤研究に従事する総括班とに分けて研究活動を展開する。
調査班は、日本、タイ、フィリピン、インドネシア、バングラデシュ、マダガスカル、ニジェール、ウガンダ等で、すでに長期のフィールドワークを実施してきた総勢9 名の研究者から構成される。
同班はさらに、①「生活における情動」、②「危機における情動」、③「祝祭における情動」という主題ごとにサブ・グループを作り、研究会やシンポジウムを組織する。
研究目的に記した通り、本研究では、自然災害、紛争など現代まさに喫緊の課題となっている危機的状況が日常生活における情動の働きを浮き彫りにする点に着目し、受動的に巻き込まれる局面②と、それとは逆に能動的に情動を介した共同性の構築過程がみられる局面③をあわせて、情動の生成のプロセスを多角的に考察する。以上の理由から下記の主題別の構成をとる。
・調査班
① 生活における情動:生業活動や日々の人間関係といったミクロな日常的営みにあらわれる情動の流れや働きについての調査研究を行う。マダガスカルを中心としたインド洋海域世界の社会人類学を専門とする深澤秀夫(AA 研)が取りまとめを担い、生態人類学・東アフリカ牧畜民研究を専門とする河合香吏とともに、現地社会における長年の参与観察の経験を活かしながら、農業や牧畜といった日々の生業活動に背馳する情動の流れを解明する。また研究協力者として、文化/社会人類学と科学技術社会論や科学哲学とを架橋する研究を推進している久保明教(一橋大学)が参加し、IT 産業やロボット技術が日常化した状況における情動も問題化する。
②危機における情動:ここでは、自然災害や紛争などの予期せぬ出来事をめぐって現われる情動を主題化する。経済人類学・アフリカ地域研究を専門とする佐久間寛(AA 研)が取りまとめを行い、サハラ南縁地域における飢饉や土地収奪をめぐる情動のあり方を調査する。また、東南アジア島嶼部の人類学を専門とする床呂郁哉は、1970 年代から現在までつづくミンダナオ紛争、それにともなう移民・難民の発生といったリスク・ハザードと情動の関係を調査する。さらに、東南アジア地域研究・文化人類学を専門とする清水展(京都大学)は、約四半世紀にわたり調査してきた火山噴火をめぐる地域社会の経験をふまえて、理論面にも踏み込んだ研究を行う。
③祝祭における情動:なぜ人は神や自然を畏怖するのか。なぜスポーツや音楽に熱中するのか。これらの経験に通底するのが情動であり、本テーマでは、情動の発現が顕著に見受けられる祝祭的場に焦点化することで、その共通点と相違点、および情動の開放とコントロールの様態を精査する。取りまとめは文化人類学、芸能・儀礼研究を専門とする吉田ゆか子が行う。宗教学を専門とする高島淳が加わり、文献学の調査手法も加味した研究を展開する。また南アジアの人類学、インド・バングラデシュ研究を専門とする外川昌彦(AA 研)が参加し、2007 年のサイクロンなどの危機の後、宗教的実践により日常性が再建されていく過程をめぐる情動の働きを考察する。
・理論班
調査班が掲げる個別テーマを全体からの視点によって総合し、新たな理論構築を目指す総括チームを編成する。人類学以外の多分野の知を結集し、議論の先端を拓く。本研究の代表者であり、東南アジア大陸部の人類学を専門とする西井凉子(AA 研)が取りまとめを担い、イメージの人類学という新領域の開拓者である箭内匡(東京大学)と認知心理学を専門とする高木光太郎(青山大学)が研究分担者として、霊長類学の黒田末寿(滋賀県立大学)と理論生命科学の郡司幸夫(早稲田大学)が研究連携者として参加する。また公募を通じて若手研究員一名を雇用し、専門を活かした研究を行うと同時に、国内外の研究者との連絡調整、関連業務の補佐を担う。
また理論班は、情動・感情をめぐる自然科学・人文社会科学系の文献が近年爆発的に増大している事実をふまえ、日・英・仏語文献を組織的に収集し、「情動文庫」(仮称)を創設する作業を担う。これは世界的に見ても他に類のない試みであり、実現すれば情動研究の基盤的コーパスとして国内外の研究者に広く活用されることが期待できる。
2 研究方法
本研究の方法論の柱となるのは人類学的なフィールドワークである。より具体的には、参与観察とインタビュー/ヒアリング、録画や録音といった人類学的フィールドワークの一般的手法に加えて、人々の実践的な行為の詳細を追うための動物行動学の手法であるアドリブ・サンプリング法や、出来事=エピソードの被調査者との共同分析、さらには供述信用性評価といった供述心理学の技法を用いる。これらの方法により、かならずしも言語化されない行為や、一回性の偶発事にあらわれる情動を対象化する。各班のメンバーは共通の主題のもとで密に情報交換と議論を行う。ただし、各研究者が専門とする地域は多様であり、また情動という人間にとり基盤的な事象の研究を進める上では、そうした多様性を最大限活かすことが望ましいと考えられることから、原則として、一つの地域で共同の現地調査を行うことはしない。